Take you, 連れてくよどこまでも

To the night, recklessly we fly.


  • 2017/09/09

    陵辱と悪意について

     近年の朝凪の作風からは彼が当初持ち合わせていた女性への悪意が消失しているように見えて、だいぶ切ない。
     雑に要約すると、”ジャップオス”に代表される無意味に攻撃的な語彙や弱者ゆえの強みを際限なく悪用する傲慢な振る舞いなど、現実のTwitter上に存在するある種のフェミニスト……というよりはミサンドリストたちの振る舞いをそのままエロまんがに持ち込み、それを萌えキャラに落とし込むことで露悪的に戯画化し、そして男性性の攻撃による即落ちという形で彼女らと彼女らの尊厳と思想を踏み躙る……というのが例の作品で起きていたことだ。
     当然ながらそれは攻撃的かつ露悪的な表現であり、(是非の問題は措くとしても)そこに批判が集中することは極めて当たり前のことに思えるが、その是非を巡る議論には特に興味が無いのでここでは触れない。一応言っておくと、あのような構図での批判に対して批判者を美少女として描く―――萌え消費する―――のは端的に不誠実で、ああいう行いをスマートで気が利いていると肯定的に評価する周囲の振る舞いは最悪だなあとは思う。そういうところですよ?
     ……本題。端的に言って、現実のミサンドリストのカリカチュアごときでは―――たとえそれがどれほど誇張されていても――ーその強度として、ひとつの物語世界を支えるヒロインたちにはとても敵わない。往時の朝凪作品においては、キリトさんの輝かしい物語を彩るSAOのヒロインたちや、その身に備えた圧倒的な能力で世界を掌握していく咲の少女たちといった、神聖にして侵すべからざる少女たちをただただ無意味かつ無邪気に踏み躙ることにより、圧倒的な暴力を描くことができていた。そこではまた、作品世界そのものへの強い懐疑と嫌悪すら感じられた。対象の強度の高さと陵辱の動機の薄さこそが往時の彼の圧倒的な悪意を担保するポイントで、高貴な少女たちを無造作に/片手間に汚し尽くすことによって表出する悪意を最大化できていた、と見做すのが実情にふさうように思える。翻って、格の低い少女たちを/因果応報または勧善懲悪の論理までをも導入して嬲る近作には、朝凪がかつて成立させていたような過激さが全く存在しない。上述したような政治的な議論が紛糾することでさも過激な表現であるかのような錯覚は生じるものの、そのような盤外の事情を度外視すれば、むしろマイルド極まりない表現になっているように見える。誰が見ても無謬とはとても評せない低質な少女を、正論を吐きながら竿役が犯す場には、どす黒い悪意も理解しがたい怒りも見出すことはできない。
     露悪的な表現を形式的には推し進めながら、中心に座していたはずの強い衝迫が消え失せてしまっていて、代わりに、より一般的な表現を過激なものとして祭り上げようという、読者と共犯関係を結ぼうという目配せが導入されている。それが近作に感じる私の率直な印象だ。
     無論として表現者の転向などは常に彼の勝手であり、外野として好悪を表明する程度のことしか私にはできないが、私は彼の悪意と暴力の描写能力は余人に代えがたいものであり、それが喪われたことは極めて遺憾であると感じている。  


  • 2017/06/18

    千の刃濤、桃花染の皇姫 プレイ日記003

     『花篝』開始。
     滸に罰を言い渡す宮国。どんどんと格が上がっていく。強まっていく宮国と、彼女の傍で自らを生きることを思い出す鴇田との物語が最終的にどこまで高く飛べるのか。今のところ、最も気になるのはそこだ。
     エルザ父の存在はかなり構図に閉塞感を齎していて、よくない感じがある。あんまり詰めて考えてないんだけど、共和国側の高官が共和国ヒロインの上にいるのはかなりまずい気がしていて、エルザをそこに置いた方が手が広くなりそうな予感だけがある。
     菜摘パートはよくわからん。サイリウム演出やりたいだけ、とかでないことを祈るが……。
     槇は結構いいキャラの感触がある。あまりストレスにならない範囲で緊張感を給してくれる感じ。
     忠義についての問答、死に場所を問うということ、といった話は面白いものの、やはり体制側との闘争というメインのフレームが割とどうでもよいのは若干きつく、早いところ別の構図に移してくれないかなーみたいな印象はある。
     政治パートが全体的に厳しいというのは明確にあって、ユースティアの浮遊都市という設定は世界を/社会を物理的にも概念的にも小型化/単純化し、問われるべき問題を明快に仕立てられていた点においてうまく機能していたんだなーと事後的に評価が上がる感じの。政争そのものに快楽を感じる回路とかないので千桃のそれは相当つらい。
     槇はいいなあ。武人の間で話が完結している時はだいたい問題がない。やはり社会や政治がよくない……。

    今思えば、私は宗仁の世話をすることで、何とか自分を保っていたのだろう。
    子供と親友と恋人の役割を、記憶のない宗仁に押しつけていたのかもしれない。

     いい具合に捻れている。
     とりあえず滸エンド。ED曲はどことなくAsian Dream Songを彷彿とさせる。Aメロとか。サビ後半でドラムパターン変化するのはかなり良い手法だなー。

     選択肢から再開。
     仁王立ちで死ぬ槇。メインの物語を展開することで、ヒロインの想いは成就せず、人は死んでゆく。√構造そのものに注意を払いながら観ていきたいが……。
     と思ったら槇存命かよ。ネームドの捧刀会キャラは容易には退場させられないということ? 或いは御三家に何か未使用の設定があるのか。よいキャラなので適切に動かしてほしい。小此木と並んで期待できるキャラ。

     『火取虫』開始。
     生徒会発足。これは期待できるんじゃないかなー。ゲリラ展開はいい加減に飽き飽きしていたところだし。
     なんかよくわからん黒幕会話。優男の人とかなんだろうが、まあ現状では割とどうでもよい。
     人殺しを食事に喩えること、については烈火の炎と忍空が想起される。前者では食事とファックが一体化したので便利みたいなことを天堂地獄が言ってて確かに便利やなーと思ったりしたくらいのアレだが、忍空の赤雷がアレするところなんかはだいぶ演出が神がかっていて、人の死を観ながらでないと飯が食えない狂人の「うますぎてふりかけが欲しいやぁ!!!!」という台詞は未だに忘れられない。忍空は本当に異常な漫画なのでもっとちゃんと考えたいが現状手元にない。はい。
     古杜音の声になんか聞き覚えあると思っていたが、声を張った時に阿澄佳奈っぽさがある。ニャル子さんは理論上かわいいから……。
     結末にはそれほど関心がない。

     分岐から。

    そうだ――
    私は、自分の中の最低限の高潔さを守るために行動する。

     こういう、飾り気のないテキストの切れ味がよい。多数ライターだからこそ、の簡潔さではあるかもしれない。
     エルザはどうなんだろうなー。ややチョロすぎる感はある。分岐が早すぎるというか、たぶんもっと事態が混迷し/皇国と共和国という二項対立すら怪しくなってきた段で関係性を築くことができればもっとエモくなったんじゃないかなーという気のしないではない。

     分岐に戻る。
     小此木もウォーレンも巨悪ではない、となるとまあ優男氏とかなんだろうなーと思うけれど、こうしてみるとかなりシナリオ短そうな感じはする。

     『邯鄲の夢』開始。
     登場人物の魅力の出し方などは流石オーガスト、という感じではあるのだが、ここで描かれたままのベタな恩讐が現代で描かれるとマジでつらいので頼むぜという……。

     『柿紅葉』開始。
     うーんロシェルの格が低く見える……。個人的な問題意識として狂人をラスボスに据えるの非常に難しいよねというのがあり、それこそフェイスレス程の強度をもって成立させない限りは滑ってしまう気がするんだよなあ。  雪花のキャラも完全に駄目な感じがある。物語が佳境を迎えた後で出すには流石に強度が足りない。
     ユースティアのガウはすごく良かったんだがなあ……。やっぱり他者を甚振るというのは他者に価値を見出している人間がやることで、端的に雑魚の所業であるから、よくない。ガウは闘争そのものを第一として掲げていて、それがあの世界で最も尊い振る舞いに僕には見えたのだった。
     キャラや演出が綺麗にブロック分けされ、各々が役割を順繰りに果たしていくリレーに何か引っかかるものを感じる。往々にして物語というのはそういうものであって。何が引っ掛かっているか、はだから丁寧に詰めて考えないとならない。

     分岐から。
     ミツルギを生み出す時に生じた澱が禍魄、ってところか。あまり美しいロジックで倒せる気はしないが、そこは期待ということで。
     ユースティアの浮遊都市という大ネタが世界に存在する幸せの上限を定めるためにあったものであるとすれば、禍魄は奇蹟の対価を体現するために作られたものに見えて、なんというかこう、ゼロサムゲームである世界、というものに対して何かしらの拘りがあるのかなーとか思ってしまうな……。
     『冬濤』開始。
     ティアを救う話。構造だけを見ればそう言えるけれど……うーん……。構図の反転。そういうのが観たかった訳じゃない、んだ。たぶん。
     別離のタイミングで空気を読んでくれる黒主大神さんすごい配慮できる神だ。
     そういえば私はユースティアの最後に神が出張ってこないことに関して文句を書いていたのだが、しかしこういうのを望んでいたわけではない。これに関してはそのうち言語化します。
     総評としては「ユースティアから一歩踏み出すのはいいとして、方向が私の好みではない」あたりでひとつ。ラジオ用になんか纏めておかんとな……。


  • 2017/06/15

    ろりとぼくらとおまえらの

     フィクションは―――それが「家族を愛するべき」「夢は必ず叶う」「人間は異性に惹かれる」「有意義な人生を送ることが本当の幸福である」などといった観念そのものであれ、また具体的な創作物の形をとって現出するものであれ―――人間に影響を与える。芸術が自然に対し、事後的に芸術的な美しさを与えるように、フィクションは人間にフィクションを通した世界認識を与える。人間は文脈によって世界を識る、ということだ。だから、人間精神が確固たるものとしてまず存在し、そこにフィクションが影響を与えたり与えなかったりする……という世界観は既に問いの立て方からおかしくて、フィクションの影響を論ずるときには、ポルノはもちろん、創作物一般といった括りですら対象としては狭小に過ぎる。そのような特権視を最初から拒絶すること、が戦い方としては重要であり、極端から極端に走らないこと、倫理と感情をめぐる政治であるということを強く認識することが戦いを終わらせるためには必要とされる。そのような闘争には非常なセンスが要求され、きっと僕や彼らはその器ではない。味方を動員し/喝采を浴びることが勝利条件である場ではない、ということだ。それは擁護派であれ、批判派であれ変わりない。

    千の刃濤、桃花染の皇姫 プレイ日記002

     社会人になることでエロゲができなくなる、などというジンクスは認められない。エロゲは最強であり、労働などには負けない。というわけで千桃やるぞウオオオオオオオオオオ。
     呪装刀の位置付けはまだよくわからない。魂の宿る刀、ということで武人を重ねられているような気はする。
     滸の激情を共有できない鴇田。世界と歯車が噛み合わない感覚。いちいちFFX序盤っぽい感じはある。
     ただの剣であることを強調する鴇田。ユースティアにおいて、カイムがその意志の薄さを詰られたことなどが想起される。鴇田が彼自身の望みを掴むこと、は大きな目的のひとつとして提示されているように見える。

    「先程、帝宮から花の発注があったんです。帝宮ですよ帝宮」

     ぅお前のことが好きだったんや……! じゃあないんだよ。
     小此木のキャラは結構いいなあ。現状のところ(後で崩す前提なのかな、とは思うが)ステロタイプに満ちた世界で、だいぶ個別の魅力をもって存在できているような気がする。
     古杜音は鈴木、滸は玉藻の面影がある気がする。宮国はたぶんエリス。何かしらの一貫性をもって似たようなキャラが配置されているような。直観一発だが。
     激発した武人たちを揶揄する鴇田、彼らの想いを汲む宮国。この対立はやっぱりエモくてよい。

    いかなる理屈も俺の決心を変え得ない。
    俺の意志が理屈の上にないからだ。

     核心。
     護られる者の苦しさ。シンフォギアなどを連想する。
     テロからOPへ。今日はここまで。


  • 2017/06/14

    千の刃濤、桃花染の皇姫 プレイ日記001

     『雪割草』開始。
     母との語らい。自己犠牲による救世のさだめ、というモチーフでFFXを、そしてTOSを連想し、コレットを連想し、やはりユースティアを連想する。やっぱりネタ元のひとつだと思うんだよなあれ……。広い意味で取れば大図書館も自己犠牲による救済を巡る物語ではあって、何かしらの拘りのあるところなのだろう。
     史実をなぞるような世界観の構築は割と厳しいが、好みの問題ではある。
     なんやかんやで学院生活初日まで。武人なら為すべきことをしろvs.暗殺では何も救えない。目的のための合理性と、目的のための矜持との軋轢……という構図はユースティアから据え置かれている?
     ユースティアという作品は思想―――大義や信心、忠誠など―――に縛られた人間が巨視的な世界観を得て(ここでは私人としての価値観を上述のような思想が完全に塗り潰す、程度の事態を想定している)変質していくことで物語をより壮大なものとして肥大化させながら、一方では物語を盛り上げるそのような力学に対する懐疑を主人公と最終ヒロインの間で描き、飽くまでもごく私的な/矮小な/個人の実感に立ち戻って決着を付けた作品だという印象があって、千桃もそのような、人間が彼自身の実感を離れたところで生きてしまう、という状況に対する何らかの屈託を抱えているように直観的には見える。一文が長い。はい。
     付言するならば、大図書館における羊飼いという存在も少しずれたところで同じ問題意識を共有しているように僕には思える。巨視的な正解を他者に強要するということについて。それは傲慢ではあるけれど、そこにある切実な願いは善性と呼ぶほかないほどに尊いものでもある。この説教臭くなりがちな対立を極めて柔らかく読ませたあたりが大図書館の異常にテクいところだと思ってるんだよな。また話が逸れる。はい。
     くどいほどに描かれる皇国の没落と共和国の横暴はある種の前フリに見えて、いずれ解体される構図だからこそ露悪に堕しても構わないみたいな割り切りが見える気がするんだけど、完全に的はずれな予想だったら結構恥ずかしい。  古杜音かわいいな……。かなりのよさを感じる……。
     エルザ視点を終え、今日はここまで。


  • 2017/06/06

    好きの形

     サクラノ詩の存在感が自分の中で増していくのを感じている。
     よくわからない詩を詩集に見つけて、それが何故だか気がかりで、どこへ行くにも持ち歩いて暇をみては眺めたり口ずさんだりするような、或いはなんとなく興味を惹かれるトマソンを街中に見つけて、角度を変えて色々と眺めてもどこがどう自分の興味を惹いているか皆目わからないけれど注いだ時間に比例して興味もまた増大していくのを自覚する時間のような、そんな感触がある。何かがある、という確かな直感を頼りに、試行錯誤しながら感覚を調整していく時間はとても楽しいもので、僕にとり、これが創作物と共に過ごす上での最も素晴らしい体験の形であるということを思い出している。
     こんな年齢になると、新しく触れる作品を既知の類型で捉えることも、自分の中のある種の文脈により評価することも、涙が出るほどに容易だ。経験が齎す手癖は想定範囲内の驚きと既知の領域の拡大による充足のみを作品体験から選り分け、自分という精神を先鋭化させるための糧とする。それも、半ば自動的に。その心地よさに溺れることの気持ち悪さ(・・・・・)を自覚させてくれた、或いは思い出させてくれたこと―――サクラノ詩に僕が感謝を表明したいのは、まずもってそこだ。物語が僕に資するのではなく、僕が物語に資する。その上下関係は決して見失ってはならないものであって、ここに至ってようやく、僕は物語のために自己を絶え間なく解体していく感覚を取り戻しつつある。  


  • 2017/06/04

    サクラノ詩 プレイ日記010

     V The Happy Prince and Other Tales開始。

    「なんか草薙さんの周りには可愛い娘が多いです。
    「でも、草薙さん、その誰にも心を許していない様にも見えます……」

     核心。
     吹と草薙のアホ会話は結構好きで、日常パートでストレスないのは吹と藍と圭と鳥谷という感じ。まあ好みの問題だ。
     藍があまりにも貴すぎる。そして直哉を待つであろう圭。夏目姉弟は今のところ最も好きなキャラ二人で、だから彼らが中心になるであろうV章には格別の期待がある。
     幸福な王子のツバメは誰に擬されるのだろうと思ってたけど、圭か。エモい。
     草薙と圭のアホ会話頗る良いなあ。The JAMは好き。モッズの話をされると漫玉日記の桜玉吉が思い出される。ウィアモッウィアモッじゃあないんだよ。ヴェルヴェッツのWhite Light/White Heatは一時期狂ったように聴いていた。思い出。

    「それでもさ。俺はいつまでも待ってるから。
     だから今じゃなくてもいい」
    「俺は直哉と絵を描きたい。それだけでいいんだ」

     神を宿していた頃の稟が完全に閉じた芸術家で、雫と触れ合い観客という外部との繋がりを得たのとは異なり、圭は競作する対象という一点に於いてのみ外部と繋がっている。開かれ方が違う。これはたぶん大事な違いだ。

    「夢は人を喰らい。喰らった夢は、芸術という実を熟す」
    「熟した果実は、地に落ちて、人々を潤す」

     すばひびにおける雫の比喩を想起させられる。重要なイメージ。

    「俺は、バカだけどさ。絵だけは分かるんだぜ」

    「俺の心を打つものが、紛い物なわけないだろ」

     最高かよ。

    「草薙直哉はジャンク。
     私みたいな人間にそんな事言われて、あなたは反論すらしない。してくれない!!」
    「そんなバカな事ってある!? そんなのが正しいわけがない……」

     ヌヌザックの慟哭を思い出すわけです。自らの奉じる者に己の愚かしさを断じてほしい、そういう形の崇拝もある。
     吹との勝負で想起されるZYPRESSENの夜。この構成はかなり善い。新BGMの使い方は精確。いいねえ。

    圭の死。そこから先については、特に語る言葉はない。   しかしこれで、草薙直哉の絵はすべて死者に捧げる絵になってしまったんだな……。

    VI章開始。タイトルは隠されている。
    草薙教諭か。確かに学生としての話はV章以上に何かできるとは思えないし、妥当な処理に思える。
    愛するものが死んだ時には。
    若田からの電話。草薙健一郎の話を受け売りする、こういう風に言葉が巡っていくことは作品のテーマにふさうものであるように感じる。

    長山は、ちゃんと芸術家してるんだなあ。

     作中為された言及で最も残酷な一文では……。
     タイトルは『櫻の森の下を歩む』。
     確かにこれは続編を前提としているように感じる。

     総論はそのうち纏めるかもしれないけれど、ひとつ書いておくとすれば、僕は「強い神」を掲げる稟の在り方に殆ど興味がない。何か否定的なことを書くとすれば、それは稟という少女の立ち回りに覚える違和感について、になると思う。メインビジュアルを担当し、圧倒的に存在感があるはずのデザインをされておきながら、僕の目に彼女は全く価値を持って映らない。端的に平凡。III章の頃の方がよっぽど強く、美しく、おぞましい人物だったように思える。
     これは草薙直哉と夏目圭の話であって、御桜稟は彼らと同格ではない―――と、直観的には言える。作中世界における扱いの話とは関係なく。人々は幸福な王子と死んだツバメを塵と断じて捨てたけれど、神に見初められて永遠の幸福を得た。夏目圭という才が世界に何を残したのか、が描かれるのがサクラノ刻になるのだろう。そう期待している。


  • 2017/06/03

    サクラノ詩 プレイ日記009

     雫√、夏休み明けから。
     壁画を観ることで吹を認識可能になる、というのはまだすんなりと了解されていない。単に何かしらの願いを請けて桜が奇蹟を齎すというのであれば吹が人間化するという話だけでいいわけで、そこに認識の話が絡むのは何なのだろう。気になる。
     球体関節。ハッフルパフに2兆点与えます……。
     吹と同質なものであると語る雫。コピー。どういうことなのかしら……。誰か(稟?)の画才が吹に宿っているように、雫もまた誰かの何かを受け容れた者である、とか?
     雫が一緒にいる時の吹はかなりよい。
     天才芸術家により心を知った少女と、少女により人を知った芸術家。敢えての草薙本人(父ではなく)だとすると異常にエモいがたぶんベタに受け取るべき情報。
     遺産相続放棄が雫のため、という話。重要っぽい。自己の振る舞いを完璧にコントロールしようとする草薙。

    「あいつは俺の作品を墓碑銘と言ってくれた」

     何の話かは知らんがエモさを感じる……。

    こういった感覚がしてからの目覚めは、いつも、やけに頭の中がクリアで、夢の澱がすべて洗い流されている……そんな感じ。

     夢張。……って比喩的な何かかと思ってたらマジで巫女やんけとなる。あまりにもエモく、こうして異常にエモい過去エピソードを展開されると稟の幼馴染性とは何だったのかという印象のないではない。
     A Nice Derangement of Epitaphs。
     草薙父との関係性はかなりよい。銀河鉄道はSCA自お気に入りのモチーフっぽい。
     マーティ・フリッドマン。さすがにTornade of Soulsという感じになる。

    「誰も一人で何か育ったりしねぇよ……」

     核心。
     桜の芸術家。死者の想いを吸って咲く華。天才芸術家ってそっちかよという。と思ったら更に捻られるのか。こういう構図のフェイクは結構混乱して、好き。
     中村家まわりはどうでもよいが、フリッドマンや明石との悪巧み、そして草薙が絵を描く展開は頗るよい。そして藍は尋常じゃなくかわいい……。
     死を描く桜の連作は順当に九相図。既に脳内で水夏の主題歌が鳴り響いている。或いは人間椅子。
     草薙の絵を見て素の怒りを噴出する明石。贋作パートすげえ善くて、雫のエロパートが完全にどうでもよくなりつつある。

    この作品は、とても、つらく、きつく、逃げ出したいほどであるが、それでもここは心地がよい。
    この場は、苦悩すら心地よい。

     ピンポンのドラゴンの独白とか思い出す。一般的な意味における心地よさ、幸福と苦痛の総和が決定済みな状況で苦痛の少なさを以て語られるそれとは全く質を異にする、ということ。

    「俺が? 美の不合理さを体現?
     いやいや、それは無いだろ」

    「博愛の暴力性。慈愛の暴力性。自己焼身が世界を燃え尽きさせる様な予感……」
    「草薙直哉というのは、そういう芸術家だ」

     救済することの暴力については、ここまでも繰り返し語られていた。
     しかし、一枚絵で見てると草薙健一郎の方が先にデザイン存在していて、こいつの息子だから、ということで直哉のデザインが調整されたんじゃないかという気はする。特に根拠とかはないけど。直観一発。

    「俺の墓は花であふれているだろう。だがそんなものは見せかけだ。
     本当の墓は、この絵の傍らにある」

     作中最高のよさが更新され続けていく。
     言葉では超えられない世界の壁に、絵画はどのように面することができるのか。
     草薙健一郎名義で絵を世に出してよかったのか、と訊くフリッドマン。II Abendでの草薙と明石の立場はこの構図の再演だった、と。絵を描くということの意義を深く理解しているにも関わらず、他人の絵に関しては一般的な通念で語ってしまう、という草薙の歪さは意図したものなのか何なのか。
     両親それぞれの死に絵を捧げた草薙。氷川の内包する死を葬ったことも考えようによっては弔いの筆であって、そのようなものとして彼の絵が(これまでのところは)一貫して扱われていることには注意したい。
     閉じた天才であるところの稟と、開かれた天才であるところの草薙。閉じた天才として圭が描かれていること、その鳥谷√における未完成の絵画が卵の殻を破る雛鳥であったことなどはやっぱりコンセプチュアルな感じがする。
     草薙健一郎と雫と吹の生活は異様にエモくてよい。草薙健一郎と草薙直哉関連の話だけ読みてえ……。
     よい話であった。

     IV章。そのようなことがあった。ここに語るべきことはない。


  • 2017/05/31

    日記

     不快感表明同意蒐集ゲームはほんとうに人類をだめにしているのでみんなやめましょう(今日の一言)

    サクラノ詩 プレイ日記008

     分岐より、III Marchen開始。

    「昔、昔のお話です」

     詩人の男は以下略。定型句ではあるんだけど、この読点の感じはまあ意識してるよなー。ルリヲとか見るに、やっぱり筋少はSCA自のイメージ源の一つなのかなという気がする。
     オオカミをモチーフとした糸杉を描く氷川。こうして提示・比較されることで草薙の桜イメージが強化される気もする。
     贖罪。贖罪はあまり好きではない。だから、

    「罪悪感で美しく光る星々に用事はない……」

     このような言及にはやっぱり痛々しさを感じてしまう。想いの成就したここに至り、川内野の気高さは徹底的に陵辱され、見る影もない。オオカミの美質は喪われ、奇蹟を退けた少女の決意もまたここにはない。
     在りし日の歌。鳥谷の材料採取の話ってここらへんから着想を得てるのかな。
     詩の朗読で〆。うーん。川内野の美しさを肯定したいマンとしてはやはりつらい……。

     雫分岐。迷子イベントから。

    「ふぅ、まだ、雫と直哉が出会ったばかりだという事が分かってないのですか?」
    「分かってないわけじゃないのだが……」

     なんか読み落としてるのでなければ、意味深。
     雫を葛と呼ぶ草薙。確か稟エピローグで葛はもう見えないみたいな話を吹と雫とでしていたような。
     雫が引き止めても帰ってしまう稟。自分以外の√では常に完璧なヒロインだ……。  稟の話には稟√で語られなかった部分があるのかな。だとすると序盤ヒロインが設定使いきれず割を食う問題の典型って感じで結構つらいものがあるが……。稟√はもっと各人の内的なエモさを最大化する方向で行った方がよかったんちゃうんみたいなのはあるけれど、それはそれとして長山関連のどうでもいい外部要因で駆動するくらいなら、もっと突っ込んだ設定まで分けてあげてもよかったんと違うのみたいな。
     III (タイトル長すぎて転写しきれんかった)開始。したところで今日はここまで。


  • 2017/05/27

    サクラノ詩 プレイ日記007

     川内野の回想明けから。

    好かれていても、好きになってあげられないキモチ。
    その好意に報いてあげられないカナシサ。
    私もその感情を知っている。
    私はそのもやもやが煩わしくて、とっとと切り捨てた。
    告白されたその次の瞬間にそいつに「キモイ」と答えた。
    本当は、あいつはキモくなんてない。
    あいつは格好いいヤツだと思う。

     川内野の鬱屈とした内省はどれも異常によい。全編この水準であれば、とはちょっと思う。
     氷川の草薙に見せない表情は好ましいが、川内野の氷川への甘え方には特に魅力を感じない。なぜC†Cのフラワーズや大図書館一年ペアの会話は永遠に眺めていられるのにこのペアだとだめなのか、は後で考えたい。割と重要な気がする。
     毒きのこの少女。やっと氷川がエンジンを掛け始めた感触。草薙が赤ずきんに於ける狩人に擬されていることに今更気付く。常に音速が遅い。
     屋上で草薙と対峙する川内野。こういうのを常に展開してくれ。

    「せめて、それが奉仕の精神からであれば……私はどれだけ救われたでしょうか?」

     行動としての奉仕ではあっても、精神性の領分ではまた違うということ? この辺はまだよく見えていない。4章以降で主題になるのかなーという気はするが……。
     不良とか長山とか導入するのは本当に余計な感じしかないが、うまく機能するんだろうか……?
     夢張の巫女、完全に塚本葉子さんという感じではあるが、しかし心を持たないがゆえの感応能力というモチーフはそれなりに元ネタありそうな気もする。

    「私にがんばれって言ってください……」

     稟の強まりは常によい。
     応援を残して屋上へ。例のBGM。草薙の話は善い。草薙の話を無限に展開してくれ。
     稟の強まり(再)。よみたそをだいぶ怖い方向に強めるとこうなりそうな気がする。

    「ああ、この人って、お母さんの死という悲しみを、いつまでも奉仕という形で紛らわせてるんじゃないかって……」
    「私はそう思えてならない……」

     救済の対象としての。

    「嘘、嘘、今更そんな事言ったって、遅いよ。
     さっきの目は、私を嫌悪したもの」

     なんだこいつラスボスかよという趣がある。
     ヒロインが他のヒロインに嫌いだと明言する。こういうのはとてもよいのでもっとやってほしい……。
     三人デート。料理の話は非常によい。ものを創る者たちの話なのだから、料理の話だって当然してよい筈だ。

    「失っても、他人を救う」
    「誰よりも痛みを引き受ける」
    「そんな人間に、私が敵うわけないじゃないか……」

    「買いかぶりすぎだよ」

    「最後の筆を、一人の女に捧げた人間が言うことか!」

     よい応酬。スリザリンに10点与えます。
     総括を説明的な言葉で行ってしまうのはあまり好きではなくて、もっとプレイヤーを信じていいんだよ、と思う。飛ばし方が足りない。アクセルが踏み切れていない。飛ばすのであればどれほど省略しても成立するかの限界を追求してほしいし、精密に活写していくのであれば本当にキャラの思考の動きが透けて見えるほどの緩慢な時間感覚を言葉を費やすことで得てほしいと思う。多分に文体の好みの話でしかない。はい。月姫琥珀さん√ラストの琥珀さんの語りが月姫でぶっちぎり一番苦手な文章であるところの人間としてもな。
     奇蹟を蹴り飛ばす川内野。こいつ格好いい奴だな……。
     長山の前で糸杉を描く氷川。長山のよさの一端が垣間見えた気はする。誰もが才を捧げて人を救う在り方に思い入れるのとは逆に、喪われた才の方をこそ注視して止まない精神性。或いは圭と同質な存在としての長山。でもそういう方向性なら稟を追い込むのとかちょっと違うんじゃないかという気はしていて、雪代縁はターミネーターであって欲しかったみたいな気持ちがあるわけよね。むしろ志々雄真、いや方治の方が緋村抜刀斎という存在に強く思い入れているように感じるやんけ、みたいな。執着描写問題。悪意の散逸について。これはそのうちまじめに言語化したい話ではある。

    「いつか俺にも可愛い彼女が出来たら、川内野、俺を祝福してくれよ」

     丘沢君、非常によかった川内野の回想と非常によいエピローグにしか出てこないので格が全く下がらず、非常によい状態しかない(語彙壊滅)。モブだが現状のところサク詩キャラでもかなり好感度高い。

    「うん、たまにはメールよこせよ」
    「お前が返事しないんだろ」
    「私はしないよ。返事なんか」

     いい会話すぎる。氷川が絡まない時の川内野は概して完璧な気がする……。
     つまらなく身も蓋もない話をすると、このように特定ヒロインに懸想していたモブ男を描くのはかなりリスキーな処理の筈で(可能性を作っただけでアウトなんだよ!)、そういうNTRの引力みたいなものから川内野を解き放てているように見える、のは素直にテクくて善い部分だと思う。どうやって成立しているのか後でまじめに考えるかも。たんにレズビアンであること、だけでは到底成立しない筈だという直観はとりあえずある。
     川内野のエモい語りから、BGMに歌声が乗ってEDへ。ここまでの話では最も好きな√。
     とりあえずここまで。


  • 2017/05/26

    日記

     立命館大学のBL論文の件について。
     (5/27削除・追記)
     長文で色々書いていたがウーとなったので(特に誰かに何かを言われた訳ではなく、勝手にウーとなった)、すげー好きな言葉の引用をもって感想の表明としたい。

    「それは敗者の理論だ!!
     勝者とは常に
     世界がどういうものかでは無く
     どう在るべきかについて
     語らなければならない!!!!」

     弱いものがさらに弱いものをたたく夕暮れ、その不条理を嘆いたり/或いは内面化して斜に構えたり、世渡りの手管について講釈を垂れるのは個々人の自由だが、充分に変革可能な不条理を前にしてそのように振る舞う者は端的に敗者でしかない。
     パブロフの犬じゃねえんだからさ。諦めが人を立ち止まらせるってARMSで習っただろ?


  • 2017/05/21

    サクラノ詩 プレイ日記006

     お泊り明けから。
     母の話がタブー化している、というのは初情報のような。父との折り合いの悪さが連想されるが……。
     朝勃ちから良い話に持っていくのは力技感あるな……。奉仕と献身に属する行為は常に作品の主題に沿った振る舞いとして機能しうる、ので恋人の興奮を鎮める行為も当然そうなる。しかしBGMが圧倒的に強く、これはちょっと強すぎるんじゃないかなーと感じる。たとえばFateのBGMの耳に残らなさ、月姫に比してもより徹底的にその印象を薄めていたあの戦略を想起せよ、とか。
     オランピア。壁画の時と同じ音楽。BGMの用法には常に注意しなければいけない。置き去りにされた過去そのもの?
     稟の父。草薙は罪悪感への甘やかな陶酔すら許さず、相手に救いを与える。
     目覚めない夢は現実と変わらない。アプリポワゼじゃあないんだよ。夢は目覚めを迎えることで夢になる―――事後的に夢であったということになる。相対的に規定される現実。すばひびの幽霊のアトラクションを想起せよ。現実が夢の続きとか言われると流石にEOEではとなる。おじちゃんはすべてをエヴァ認定するために生きているんだよ。俺たちはあの赤い海から前に進めているのだろうか……。

    「いいえ哲学的でも芸術的でもなんでもありません。
     伝わらないのであれば単に俺の説明不足なだけです」
    「ただ、不可解なものを目の前にして、その時、人はその不可解さに何を感じるかが大事だと思います」
    「それが何であるか、何であったか、そんな説明はいくらでも出来ます。神秘主義的にでも、それこそ合理主義的にだって、たぶん出来ると思います」
    「でも、誰でも分かっているはずなんです。人が不可解さの前に立ち、一番大事なのは説明でも解釈でもない事など……」

     あまりメタ読みとかすべきでない気はするが、ひとつの立場表明として読めてしまうのは確か。
     唐突に自分語りを始める(いつでもそんな事しかしてない気はする)。たとえば音無彩名の発言を僕は精確に解釈できなかった。それは知識が足りないせいでもあり、知能が足りないせいでもあるだろうが、しかしそこには訳の分からない発言を繰り返す彼女に対する好感が確かに存在していて、しかもそれが彼女の訳のわからない振る舞いを捨象しては成り立たない類の好感であった、ということは僕にとり大変に重要な事柄だ。保坂和志が「感じ」を伝えることこそが小説の目標であるという旨のことをどこかでたしか書いていて、そのようなものを汲み取り/伝達できる言葉を得たいと常に思っているが、実際に出来上がるのはこのような無味乾燥極まりないテキストの山でしかない、という現実がある。この僕が音無彩名に感じたものを記述することは全くできていなくて、不可解な語りの中にみる情報の伝達量の(進度に応じた)コントロール、キャラクタの強度の維持について、新規モチーフの奔流が齎すドライブ感など、状況を説明することで何かが伝わることに賭けるしかない。そこに伝達が成立する不思議を肯定する立場があることは痛いほどにわかるが、しかし僕は伝わるべきものの伝わらなさを注視したい。
     話逸れすぎでは? はい。

     弱くなってしまった父親モチーフすごい好き……。親はいつまでも超えられない、という世界観より千倍は好き。理由は知らん。
     忘れてしまったものを探すべきかどうか。殊に、忘れていれば平穏が得られる時に。死は隠蔽されている、と糾弾した救世主間宮たちは最期には客観的には傍迷惑なうえ無価値な死を迎えた訳だけれど、しかしそこに刹那の充足があったことを僕は忘れたくない。
     稟の声色の使い分けは特筆すべき。圧倒的にうまい。
     明かされた真実については判断保留。直観的にはあまり好きではない。夢を吸う桜。そういえばねこま@ひまなつの設定ってどういうものだったか。願いを形にするものについて。
     長山。ふつうによくない。
     吹を作ったのは雫。信仰が認識に影響する? 桜の精、と書くとそれ散る感があり、業務用冷蔵庫で殴るぞという感じに。
     概して鳥谷√と印象が同じで、作者側の提示してくる盛り上がりシーンとこちらの興味関心が大幅にズレているのと、敵役として振る舞うキャラのペラさが気になってしまうあたりがつらい。たぶん終盤の盛り上がりは何箇所か山を削ると好みの感じにはなって、長山ログアウトさせるとよくないイベント全消滅してだいたいよくなる気がする。言っても仕方のない話だが。
     長山は本当によくわからなくて、すべて間違っている気がしてならない。たとえ後に見せ場なり深みなりが出てくるのであろうともそれは同じことで、むしろ格を上げる予定だから序盤に下げてもよい、みたいな帳尻合わせであるのだとすればそれは本当によくないことだ。そうではなくて、このよくなさまでもが整合的に尊いものだと読み替えられるほどにこちらの心象をハックできるのであれば問題はないが、しかしそれを期待できるかというと正直怪しい。すばひびは序盤、2章にはもう信じることができた。サク詩にはまだ全てを預けきれていない。
     ED曲が異様に古くてやや驚く。往時のJPOPかと思った。
       氷川√。  迷子ヘルプ。糸杉の公園。なんか既に良い感じの感触があり、大変に期待している。頼むぞ。
     アルビノ。Johnny Winter死んじゃったんだよなあ。狼と毒キノコの寓話。好意の源泉について。
     草薙の位置で説明を行う川内野。この視点の移し方はあまり好みではない。
     III ZYPRESSEN開始。
     川内野視点での回想。相手によって対応を変える氷川。こういうのは良い。狼と毒の比喩は美しく決まっている。氷川の美しさは川内野の持っていたある種の美質を損なってしまった、ということ。極めて平和裏に行われる精神の侵略。

    死を受け入れようとする彼女を、
    励ます事もなく、
    ただ好きになってしまった。

     恋情の悍ましさを切り取る記述として、かなり鋭い。
     ショタ草薙はちょっとのだめカンタービレ感があり、よい。適当な芸術家であった頃の草薙。川内野回想は概してよかった。
     回想終わり、今日はここまで。      


  • 2017/05/17

    サクラノ詩 プレイ日記005

     マンションを出て、工事現場で吹と会うところから。

    「吹の情報処理能力には限界がありますので、草薙さん相手にいっぱいいっぱいでした」

    ちょっと不穏な台詞。

    稟と俺がそれ以上の関係になると言う事は、いつか避けられない問題を生み出してしまうハズだから……。

    こんにゃく海己√めいた不穏さがある。

    「なんで突然暗闇でするんですか!
     大好きななおくんとのキスを、なんでそんな不意打ちみたいな形で終わらされなければいけないのですか!!」

    強まった時の稟は本当に魅力的で、つまり上記のような台詞は素晴らしい。

    「俺は稟を最後まで守る。今度は何が何でも、ちゃんとした意味であいつを守ってやる」

    ベタに読むと自己犠牲の否定を連想させられるフレーズだけれど……。
    夜の工事現場。稟の一部が乖離して吹ができた、とかそんな感じのアレを連想する。たとえば絵の才であるとか。
     

    「良い答えは良い答えです。
     人を幸せにする答えと言ってもいいでしょう……」

    草薙直哉が吹に惚れることで、幸せになれるヒロインが一人減る、みたいな話かな。
    幸福な王子。じゃあ小鳥は誰なのだろうか……。

    「もう、葛があなたの前に現れることは無いのですね」

    吹と対応?
     稟のエロネタ関連はだいぶお腹いっぱいというか、もっと切実に強まった稟をたくさん見せてほしくはある。
     夢を飲む神。獏。人の夢を吸って華とする千年桜。幸福な王子もそうだけれど、こういうイメージの提示はうまく通せているように感じる。
     長山。現状のところ、相手の迷惑など考えずに己の愛を押し通せるような人格は長山くらいしかおらず、そのような意味において特権的なものは感じる。或いは、無私の救い手を救うためには暴力的なまでの愛が必要なのではないか、とも。

     SCA自のヒーロー観というのは割と気になっていて、とはいえ僕のヒーロー……というか救い手の観念ってだいたい衛宮士郎または阿良々木暦(原作未読だがロジックだけ知っている)しかなく、体系的な認識とかほぼ持ち合わせていない。
     たとえばADVの√分岐の話をする時に、ヒロインと主人公のどちらに物語の起点となるような問題を備わせるか、という視点を採用することは(しばしば古典的な作品を論ずる際に?)有用なこともあって、そういう発想で考える時、自己犠牲の救い手というのは極めて手が広いので際限なく作品世界を広げられるわけだよなーみたいな話がたぶんできる。細かいところは直観で埋めてるのでだいぶ怪しい話だが。

    就寝前会話はいいねえ。おじさんは就寝前会話が大好きなんだ……。

    「口だけならいくらでも言えるからな……」
    「嘘つき……」

    こういう強まった稟を無限に見せてほしいと申し上げているのですが……?
    そのまま二人とも眠りに就き、今日はここまで。


  • 2017/05/14

    日記:悪性について

     イキりオタクという語はイキったオタクという存在の批判ではなくむしろ「イキっていないオタクであるところの俺たち」を明確化し/連帯を強化するために使用されていて、ゆえに耐え難いほどに醜悪だ。対象がイキっているかどうかはイキっていない彼らが決める。それは踏み絵であって、心当たりのある者は暴力に萎縮して自らを裏切るか座して死ぬかを選ぶことになり、心当たりの無いものたちは悪趣味な処刑を見世物として最大限に楽しむことができる。
     そのようなリスクの非対称性に根差した暴力は珍しいものではなくて、表現規制の問題などが正にそうだろう。当事者でないがゆえに恣意的な規範による攻撃はどこまでも容赦のないものとなり、そこでは正しさを競う議論ではなく如何に観衆を動員できるかのゲームが行われる。直観に従った面白半分の暴力が尊厳を穢す様を見て、彼らは笑う。
     度し難い悪性の群れ、蝟集する悪意たち。

     というのがまずあって、この時点でまあ本当にもうだめだよなー死んだ方がいいんじゃねーのー? とか言いたくなるのだが生き死にとかは当人が決めるべきなので(本当に?)たぶんだけど死んだ方がいいよとサジェストを行うだけに留めておくがさておき、そもそも論としてインターネット上で若気の至りを晒すことが許されない状況って本当にグロいしそのグロさに無自覚な連中ってものすごい異常者なのかものすごい知能が低いかどっちかでは? みたいなのはあるよね……。いやもちろん大人がアレなことを言ってたって面白半分に玩具にするのは当然駄目に決まってるんだけど。殊にグロい例として。
     これはマジでまじめに考えるべきことだと思うけど、若者がある種のアレさを思春期に発露するのってそれなりにあの年頃の肉体(脳含む)のハードとしての特質とか或いは義務教育という環境が実現する閉塞感やら何やら等の本人の意志に責任を問えない部分にも要因があるはずで、その時に生じたある種の可笑しさとか正しくなさ(たとえば政治的な偏向とか―――などと書くと僕の胃が痛くなってくるが……)などがこのSNS全盛時代に於いてはワンミスで尊厳陵辱までノンストップで行ってしまう、行かせてしまうことに歯止めを掛けられないほどに良識のない大人がたくさんいる、という状況はやっぱり普通に気が狂ってるし、ここで自己責任だとかネットリテラシーだとかいった語を使って議論を終結させるのは端的に大人の敗北だし大人が敗北した責を子供に押し付けるのを是認するのは端的にダサすぎて許容できねーよなーみたいな気持ちがある。

    念のために付言しておくと、上記のような事情を斟酌することで若者の切実さを若気の至りとして無効化することにも僕は強く抵抗を感じる。これは自分の中でも矛盾しているんじゃないかとそれなりに悩んでいる部分ではあるけれど、さしあたり今は恣意的に基準をずらすことで切実さへの対応と迷妄への寛容を両立させたいと考えている。出来ているかは相当微妙だが……。


  • 2017/05/10

    サクラノ詩 プレイ日記004

     III Olympia 開始。

    以後私の事は母親の様に慕うと良いでしょう。

     苗字の隠蔽、懐かしさ、あたりの処理からやはり母説は出てくるが……。

    「だって何か吐露してしまいそうで……」
    「それは、俺に対する文句とか罵倒とかそういうものか? だったら心配などいらなかったのに……」
    「能天気ですね。そんなものを吐露するのであれば、私だってどれだけ気が楽だったか……」

     好意はセキュリティ・ホールであると王がかつて語った。無碍にすることの許されない、神聖な感情。だからこそ、それは繊細な者にとっては悪意以上に扱いの難しい暴力になってしまう。みたいな話か?
     吹のエピソードが稟のそれと被っている……とかそんな感じか。
     ウソ泣き女氏。中村麗華ほどではないが駄目っぽい雰囲気漂う。
     エロ本の貸し借りの話まで読み、今日はここまで。


  • 2017/05/09

    サクラノ詩 プレイ日記003

     いまさら気付いたがタイトルロゴは月と羽なのな。飛ぶ、というモチーフはまだ出てきていない気がする。不可触の高みとしての月と、そこに至る翼? 月にタッチするのだってワケないぜ! とヒーローが言っていた。
     創作物の価値と作者の価値を真顔で対比させるのは結構困難な気がするけれど、子供の目を通した世界であれば成立する。これは鋭い処理。
     まだ出会っていない相手に心を揺さぶられる。出会いに先行して、相手の本質に感じさせられる。とてもよい。

    たかが絵一枚で。
    世界は確かに変わったのだ。

    それがもし救いという名前で呼ばれるものでないのならば、

    それは、まるで、

    恋のようではないか。

     最高かよ。
     Hシーンはテキストも絵も若干エロ振りしすぎている気がする。淡泊すぎるくらいの感じが理想だったかな……。

    「愛と、その他の全ては等価値なのかしら。天秤は釣り合っている?」

     よい文体。レイブンクローに10点与えます。
     圭のインスピレーションとして殉じる覚悟だった鳥谷。いつか月に梯子を掛けてくれた弟のために、今度は自身が梯子たらんとする。美しい構図なのではないでしょうか。挑戦は報われない。価値は世界に登録されない。しかし幸福な日々は続く。そういうこと?
     絵に没頭し始めてからの圭の在り方に強く惹かれたので描写の飛ばされ方には若干不満があるが、直接的に語られるのはまた別の場で、ということなのだろう。
     草薙母のこと、草薙の右手のこと、稟の才能のこと、吹の立ち位置などなど。明かされていない事柄がどういう時間配分で展開されていくのかは割と注意してみていきたい。
     ED曲によいグランジみを感じる。俺たちはPixiesとCoccoで育ったわけだからよ……。

     選択肢で鳥谷ルートから外れる感じの動きをする。迷子イベント時に稟が来る。夕焼けの絵はとてもよい。
     地図の話は空間把握能力の示唆? とか思ったけど微妙か。
     雫と稟は初対面ではないっぽい。記憶喪失?
     吹のことを知っている風の雫。

    「草薙健一郎さんってお弟子さんいたのですか? そんな話はじめて知りました」
    「そりゃ、そうだ。公にはされてない。あいつが認めていた唯一の弟子らしい」

     順当に考えれば稟であり、草薙の右腕が記憶喪失のトリガーであり、雫が深く関わる事故だった、となるが……。
     えっちな会話によみたそ成分を読み取りつつ、今日はここまで。


  • 2017/05/08

    サクラノ詩 プレイ日記002

     圭の母の話。基本的によくない。悲劇のための悲劇。悪意のための悪意。
     芸術、という答えのないものを前にした時、報われることのハードルは跳ね上がる。そのような苛酷に身を置く者たちの話に、わかりやすい人間の悪意などというものを導入する意味があるのかと考えると、うーん……。こういうのはひまなつでも考えたことなのだが。
     中村麗華のキャラの悪辣なつくりもなんだかなー。ヘイト管理は見えないように隠蔽してほしい、と思うことはよくある。
     直接対決シーン。ふつうに最悪。中村麗華のキャラ操作は徹頭徹尾間違っている……。

    「若い君が、何かの、誰かの、橋渡しになることを好むのは、あまり感心しないけどね」

     核心。


  • 2017/05/07

    サクラノ詩 プレイ日記001

     桜ノ詩を開始。プロローグ。
     ワイド解像度はやっぱりよくない。40文字近くを一行に収めることになるわけだけれど、そういうことをするための文体にはあまり見えない。慣れの問題かもしれないが……。
     自然を模した芸術は自然を芸術として視るための視座を提供し、そうして集積された文脈は自然を芸術に仕立ててゆく。それはたとえば、やまとうたの世界において、桜が絶対の美しさの象徴としてあるだけでなく、ありとあらゆる感傷を背負わされているように。世界は約束事で出来ていて、僕たちは情報を愛でている。
     遺産相続放棄絡み。ギャグは結構厳しいが、チャンネル合わせればいけるか……?
     藍。のっけから善いヒロインです……。グリフィンドールに10点与えます。

    美しい音色で世界が鳴った

     希実香。
     鳥谷との距離感はとてもよい。草薙のムッツリ感も。明石先輩はふつうによくないが、ふつうによくないキャラをふつうに出すことはしないと思うので判断保留。
     歓迎会まで進め、今日は終わり。

     一章。咲き始め、か?
     愛するものが死んだ時には。おっさんなので千の夏を想起してしまう。
     幼馴染との再会~勧誘はそれほどでもない。静観。
     顧問教師の泥酔。ちらちらと感傷を垣間見せられる感触は悪くない。悼みの酒。

    永遠の国でこの二つの命は幸福に生きるだろう

     永遠の相を生きること。草薙が自己犠牲の人である、と形容されたことには注意を払うべき。
     ラッタッタって言うと戯言遣いのお兄ちゃんが怒るからさ……。
     絵を描かなくなった草薙。甘やかでともすればダルい世界の裂け目から、シャレにならない何かが覗く感じはとてもいい。向こう側を見せてくれ。

    木炭はまさに炭そのもの、燃えた後のものを連想させる……。

     焼骨。
     街は変わってゆく。すばひびに於いては停滞が語られていたけれど、桜ノ詩に於いては変化が語られる。風景にフォーカスしている、ということ。
     明石の語りのファーザーを模倣しきれていない感じは相当つらい。
     トーマスも割とふつうにダメな感じしかない。そもそも機知に富む会話とか芸術概念の定位とか草薙父にまつわる因縁の開陳などが第一、魅力的なヒロインたちとの交流が第二に優先されるべき場にあって、長尺でどうでもいい会話を垂れ流すギャグパートは基本的にすべてよくない。外部のおもしろキャラを導入した無軌道なギャグ、が意味をもつ作品には到底思えないが……。
     あと絵画関連で主人公の格を少しでも下げるのは直ちに悪手っぽいけどそうでもないのかしら……。
     おっぱい写生会。積極的によくない。無いほうがいいイベントのように見える。トーマス入部とかもだいぶこちらの心情としては悪い。

     II Abend開始。
     里奈はよい。優美は若干格が低く見える。同性愛ヒロインだいたい格が低く見える問題。
     夏目家での夕食会。圭と鳥谷の会話はとてもよい。
     コーヒーカップの話はよい。生活が主役。BGMがサティなのは少し露骨すぎる気もするが。
     作ったものを媒介に語られる人格。芸術をテーマにすることの利点。
     芸術語りパートと過去語りパートはだいたいよいのだが、トーマスのギャグは本当に何とかならんのかこれ……。
     水着試着会。ルリヲは流石に笑う。首がないんだよじゃあないんだよ。
     教会の壁画。吹の立ち位置はよくわからない。作者はだれか、というのは芸術にとってどれほど意味のあることか? という疑問の提示。

     III PicaPica開始。
     密度感がある。不要なエピソードで水増しされている感触がない。
     今日はここまで。


  • 2017/05/06

    素晴らしき日々 プレイ日記009

     Which Dreamed It開始。
     水上由岐の間宮家への訪問。今更だけど、由岐と水上由岐の違和はもう少しこまめに言語化しておくべきだったな……。
     指紋の件。アハ体験をしばし楽しむ。
     木村による設定開陳はやや強度が低い。速度による快楽はあるが。
     かがみん(材質:布)ファック。さすがに笑ってしまう。もう悠木はいない。ひとつの物語が閉じてしまった後で続く陰惨な悲劇は、もう喜劇でしかない。

     Jabberwocky II開始。
     由岐姉ちゃん最高かよ以外の感情がない。ジャコス。海。
     世界の果てを目指して。落ちてきそうな夜空。

    「うん、若槻商店の子だった、あのうさぎは……」

     すとんと胸に落ちる感触。

    「皆守さ、早く大人になって私にプロポーズしてよ」

     喪われることを知っている、尊い過去を見せ続けられることは拷問に等しい。在りし夏の日の夜。

    「こんなのさ……演出なんだろ?」
    「演出?」
    「ああ、そう……ヒーロー登場ってそういうもんなんだろ?」

     最っっっ高だよお前らは、とSCA自はじめスタッフの肩を抱いて回りたい。そういう気持ちだ。
     素晴らしき日々へ。

     上記、向日葵の坂道の他にも最終シナリオは存在するとのこと。風呂場で上選択肢へ。
     こちらが素晴らしき日々ルート。本来のエンドか。
     妄執が生む悲劇。『機械』とか想起する。これで消せる、人の悲しみを、空へ。
     彩名なー。神、いわゆるゴッドとしての。世界を作らなければ、人を救いもしない。ただ、砂浜の足跡は、つらい時にはひとつになる。そういう目線で、もう一度読み返したい。彼女の言葉を。
     どこかの誰かが作った音楽を奏でる。言葉と音の違いほど。

     ラスト分岐。終ノ空2。
     のっけから不穏すぎる。最高かよ。
     魂はひとつ、というのはプレイヤーの比喩だと読むのが最も整合的なように思うが、しかし言葉通り/作中世界のものとして読みたい気もする。


  • 2017/05/05

    素晴らしき日々 プレイ日記008

     Jabberwocky開始。
     人形が見たくないから人に見えてしまう。この転倒は素晴らしいなあ。勝手に抱いていた予断の隙を突かれることには快楽がある。
     つかさとかがみ、マジでそういうことかよ。さすがに笑う。
     由岐の健忘。欠落させられる言葉。認識の跳躍。疑問が氷解する爽快感と、ではこれから何を見せてくれるのか、という期待感。これが欲しくてすばひびをここまで続けてきたんだ。頼むぜ。
     悠木の誕生エピソード。整合的な解釈。
     有限回の経験により得られた推断により、僕たちは未知の不安を殺して安らかに生きることができる。意味が世界であり、言葉が世界。
     由岐との戦闘。二章ラストの救世主間宮のナイフ略奪とか、実際こういうことなんだなーという……。認識が断片化した由岐と妄想を肥大化させた間宮は語り手として信用できない訳で、そういうところに超常を選択的に突っ込んでいた、ということを隠す手管のうまさ。
     存在意義。悠木の衝迫。悠木を救う物語でもある、ということかなー……。
     穏やかで奇妙な日常。何も言うことはなく、尊い。
     記憶の連続性こそが自分を自分たらしめる。貴宮姉、そして笛子。ここではまた、アタマリバースしたざくろも言及の射程に入っている。自分ではない誰かの記憶を得たならば、それは新生だ。
     お風呂の話。序章はやっぱり願いの果てのお話なんだな……。

    「このまま……ずっと三人で生きていけたら良いのに……」

     卓司……。
     悠木の認識のずれのなさは、むしろ彼が主人格として振る舞うためのものに見える。何とも言えんが。
     美羽。CVが……ただの兼役ってことはなさそうだが。
     由岐。いいヤツだ。いいヤツから先に消えてしまうのは本当に本当に悲しいことだ。
     由岐の再浮上。なんだこいつ。最高の人間じゃないか。理想の顕現というのも頷ける。こんな人間になりたい、と思ったのはクビキリサイクルを初めて読んだ時以来だ。
     間宮と混線する世界。御覧のありさまだよ! ゆっくりしていってね!
     完全な混線。演出うますぎでは……。空に供物を、そして救世主に。
     修行を経て、覚悟と意思を手に入れて。尚も結末は変わらない。
     順当によく、特に感想を書くことがない……。

     下選択肢。
     由岐に思い入れる場合。
     差分はなし。悠木の物語は変わらない。

     Looking-Glass Insects開始。
     間宮のキャラ違い。時間軸の問題なのかどうなのか。前章で間宮は自己認識の端緒を辿れないといった旨のモノローグを行っていた。不連続存在。
     視力の悪さをポジティブに評価する論法は好き。世界には精細に捉えるべきほどの美しさがあるのか? と考えると、まあ、見ない方がいいものの多さを想わずにはいられない。認識の精緻化は幸福を保証しない。
     外界を過剰に内面化したがゆえの自家中毒に陥る間宮と、外界を全く内面化できないざくろとの対比。間宮の悪態が常に相手や社会に向くのに対し、ざくろの反省は常に己の選択の正解不正解にのみフォーカスしている。

    根っこのない花なんて……すぐに生ゴミに変わる。

     冒頭の語らいもそうだけれど、ざくろは幸せの持続を重視している。刹那の享楽ではなく。
     間宮オルタナティブ。心の中に引きこもるための読書、という表現は面白い。紙面の中に無限の世界が広がっているんだ、というような認識からは若干外された表現。世界は頭の中にあり、書の世界もまた紙面ではなく読者の内部に包摂される。序章で嘗て親しんだ書物が由岐の世界に受肉したことなどを想起すべきか? しかし既存キャラのオルタナティブによってキャラを増やさずイベントを過密化させていくのすごいクレバーな処理だな……。
     間宮妹! そして間宮オルタナティブは立ち絵レベルで違うのか。そんでもって鏡人形。ここまで積み重ねてきた事柄がたった一画面の中に豊饒な驚きを備わす。いいねえ。
     アルジャーノンに花束を。まさに世界認識の精緻化が幸福を齎すかどうかを問う物語。

    「少し気になってね……を……」

     原文を、と音声では再生される。言葉のマスクだが、間宮のそれとは書式が違う。
     BGMの用法の反復は常に重要。

    ただ誰とも会いたくないからこうやって休みの日は外に出てるだけさ

     認識のずらし方がいちいち面白い。顔のない群衆は「誰か」たり得ない、ということ?
     唐突にDISられる由岐氏。内心の声が割と俗なざくろ。
     序章を想起させるボート。

    なんだか、水面がまるで鏡の世界の空みたいだから

     主題歌の詞がただちに連想される。
     実体としての空(という表現が既に不条理なものだが……)と水面に映る空、という認識上の対比は少しおかしくて、むしろ実体を伴い触れることができる水面に映る空を強く偽りの側に属するものとして認識することにより、僕たちは頭上の空の正しさを(そこに根拠はないのに!)信じることができる、という転倒について話している? この種の認識の転倒を暴かれることには快楽がある。好きだぜ。
     ふたりでひとつのイヤホン。間宮オルタナティブの位置を序章の由岐が代替するデート。むしろ序章ざくろがこのデートの再演相手として由岐を選んだようにも見えるが……。
     例のバー。やっぱりこのデートの再演っぽいなあ。

    「あ、ゆ……じゃなくて、間宮ちゃんじゃないの」

     何の言い間違えだろう? 由岐?
     二人の間宮。世界が重畳されているような感覚。並立ではなく。
     選択肢は上を採択。

    「そうよ……私はこの教室では虫けらだから……」
    「でも、私には希実香が虫けらには見えないから……」

     ざくろの残酷さ。本当にひどい。
     BGMの反復! 戯曲を暗唱して強さをエンチャントするざくろ。素晴らしいの一言。新BGM! 演出の神がかりが留まるところを知らねえ……。

    ざくろを見て自分の姿を鏡ではじめて見た感じ?

     幽霊の比喩。二人称で語られる自己。
     これまでのどれでもない間宮とかアツすぎるでしょ……。ひとつ説明するたび謎がふたつくらい増えるゲームだ。
     戦争パートは概してどうでもよく、やはりDQNは舞台装置にしか見えない。

    「ちっ……全部吸い終わってるし……くそ、あれ俺が買ったヤツなのに……絶対に由岐のバカだな……」

     身体を共有している……?
     コバルト鋼だとちょっと安物ナイフ感があるみたいな風潮。わからんでもないが……。ひところはチタン最高みたいな雰囲気だったがチタン刃とかまともに砥げる気がしない。硬くて粘る金属ってナイフに向いてない気がするけどなあ。実際どうなんだろう。

    「やっぱりここだったんだとも兄さん……」
    「ふぅ……誰がとも兄さんだ?」

     はああああああああ~~~~~????? という感じになる。しかし考えてみればこれ司と間宮妹の対応だと考えれば鏡人形もすんなり納得できるし前章ラスト屋上のやりとりもそういうことだよなあ。キャラ作りに一生懸命な兄さん。悠木。本来は三人は同一存在で、何かを切っ掛けに分離する……とか? あるいは世界線のザッピングでも成立はする。どうとでも取れるように意識的に構成してあるのだろうし、ここらへんの疑問は宙づりのまま持っておこう。
     悠木無双。そして悠木は消える……ってそうか、書物を愛する間宮が由岐か。最初に気付けって話だな……。そうなるとデートも正真正銘の再演か。マスターの言い間違えを見るに、由岐はバイト先では由岐を名乗っている……みたいなところか。
     しかし救世主間宮だけ整合的な解釈から外れる印象はある。弾き出されている感というか。彼に対する悠木の執拗な攻撃性を想起せよ。ここは注視重点。あと屋上の音楽が彩名テーマだと思ってたものになっている、のは結構重要っぽい気がする。

    私はとりあえず、どうやったら会話になるんだろう……と考える。お話するにも会話にならなければどうにもならない……。
    ……そうだ、質問しまくれば会話になるんじゃないかな?

     圧倒的なリアリティ! 変な声が出た。
     シラノの詩を媒介として為される会話。とてもいい。たんに情報を一対一置換して迂遠にしているだけではなく、語られるシラノの恋物語の、その感傷そのものが重ね合わされているような感覚。マスクされた言葉は由岐への信頼。
     題の変化。夏の終わり。キス。BGMの使い方が本当に精確。世界でただひとり通じられた相手としての間宮は遠く記憶の中に。創造者と破壊者は刺し違え、素晴らしき日々へ。ED曲は希実香ルートのものと同じ。

     下側の選択肢。希実香に思い入れない場合。
     いじめ描写は全体的にどうでもよい。
     雫の比喩。これは間宮ルート冒頭のもの。
     なんか狙撃とか得意そうな神。

    「高島さん。そっちに行ってしまうの?」
    「そっちってどこかしら?」
    「間違った道」

     彩名との対話だけが面白い。現状。彩名の行動原理はよくわからないなあ。ゴルゴ神を否定したりざくろの聖戦士化を憂う。
     アタマリバース。前世系の語り。概してどうでもよい。このどうでもよさは王様ゲームのどうでもよさと相似で、ここには高島ざくろがいない。前世系の少女、というロールがあるだけだ。
     しかし投身少女たちが世界の秘密にかすってすらいなさそうなのは意外ではある。そういうレイヤーではない。
     救世主間宮のざくろへの一方的な恋人宣言が事後的に正式CP化していくのはちょっと面白い。
     BGM再演。読書間宮。あれほど世界の秘密に肉薄していそうだった一章ざくろが実は完全に前世系でしかなかった、というのは少し悲しくて、でも演出としては相当面白いなあ。一章救世主間宮のそれっぽいだけの語りなんかもそうだけど、こうやってずらされるのは気持ちいい。
     スパイラルマタイ。うーん。別視点での再演、としては面白かったが、やはり強度が足りていない印象が……。
     ED曲は素晴らしい。しかし少女の投身で加速とか言われるとやはり本格的に筋少。教養がないのでこういうテクスチャーの音を聴くとすべてナンバガだと思ってしまうが……。誰か邦ロックを優しく教えてくれ。
     黒猫モチーフはよくわかんないなあ。どこかにあったっけ……?


  • 2017/05/01

    日記

     えっちなお絵かきにハマってエロゲーが停止していた。えっちな人間なもので、、、。
     エロマンガ先生を一話だけ観る。洗練、或いは虚無。俺妹にあった精神を悪くするような部分は丁寧に削ぎ落とされ、そして俺妹にあった輝きまでもが跡形もない。
     俺妹を語る際に暴力という語を用いることは非常に有用であると思っていて、それは当然/言うまでもなく地味子氏のボディブローを直接的に連想させるワードであるわけだが、ここではもう少し広い意味で、他者に働きかける際に行使される(意識的/無意識的問わずの)正しくなさも射程に入れた語として扱いたい。高坂夫妻の子供らに対する抑圧的な振る舞い、高坂京介の少女らへの身勝手な押し付け、新垣あやせによる親友らへの過剰な投影、五更瑠璃による親友の兄の略奪など、俺妹作中においては正しくない動きなど日常茶飯事であり、そのような正しくない他者への干渉こそが物語を駆動していた。バジーナ氏があっさりとヒロインレースから脱落したことなどは示唆的だ。正しくなさで駆動される物語において、他者を傷つけまい、場を壊すまいと考える者が物語に参加できるわけがない。
     エロマンガ先生の世界は正しさに満ちている。主人公は優しくも正しい兄であり、エロマンガ先生も屈託を抱えてはいるだろうが桐乃ほどの暴力性を有さない。両親は他界することで広い一軒家という舞台のみを遺して丁寧に排除され、そこで妹のエロゲー趣味は引きこもり―――それも、主な攻撃者たる親を予め排除された―――へと変換された。彼女はネットを通じて他者や社会と関わることが出来ていて、引きこもりではあれど、そのありようを内在的に批判することは難しい。丁寧に棘を取り除いた世界には障るものが何もなくて、だから導入部は異様な速度で展開されてしまう。エロマンガ先生の屈託だけが展開を遅滞させる楔であり、それは同時に、俺妹とのよすがでもある。ただひとつだけ次作に受け継がれたのは、桐乃の残滓だ。
     上記のような感想はきっと正しくなくて、エロマンガ先生をそれ単体としてその世界の純度を評価するのがまっとうな観方なのだろう。だがなあ。ここまで俺妹を意識させるモチーフを撒いておきながら、俺妹終盤よりも更に退歩しているように見えるというのはやはりつらい。伏見つかさの敗北宣言に見えてしまう。僕たちのみた俺妹の達成は幻だったのかと、そう問いたくなる。


  • 2017/04/25

    素晴らしき日々 プレイ日記007

     It’s my own inventionの未回収ルート。
     ざくろの声は素晴らしい。エロには概して興味がないが、エロい話を振られて素で驚く際の声色などは特筆すべきものだ。
     間宮妹とかよりも存在感のあるリルルちゃんさん。
     同じ顔の悪魔。やっぱり存在の格が等しいとかそういう?
     間宮のエロ妄想は基本的に相手をデチューンする方向に世界を歪めるので変態性欲を全開にされればされるほどえろくないという悪循環がある。或いは意図的なものかもしれない。妄想を抱く相手ではなかった希実香をこそ最後に好きになった、のは本当にエモい構図。
     ふたなりちんぽ責めシーンの喘ぎ声で成瀬未亜やんけと気付く。嬌声でしか認識できていない声優が結構いるらしい。
     リルルちゃんは妄想などではない! 凛とした声で言い切る間宮格好良すぎでは……。
     悠木の立ち位置については相当ワクワクしている。彩名の語りはよくわからなくて、明示的に語られた三者の立ち位置のスワップだけが明瞭に構図として了解されるのだが、そのようにして向こう側で選別を掛けられた情報をどれほど信じていいものか、というのは結構謎。しかしそのような誘導に乗っていきたい、と思える程度の信頼は随分前から既にある。俺を揺らしてくれ……。
     悠木の再登場。いやすげえなこのキャラ操作……。悠木もまた鏡と同じような雰囲気がある。隠された言葉は間宮妹なのかな。
     かがみん破壊。先に鏡√(?)でぬいぐるみ情報とか出してあるのは非常にうまい。お兄ちゃんが悠木っぽく、本当によくわからなくなってきた。
     終ノ空のもとに輝く生。引き伸ばされた幸福が意味を担保しない一方で、刹那的な歓喜が命の意義を光らせる。
     狂信者を装いながらちんこ拭いてないことを思い出す間宮。いいなあ。すべてを覚悟した者の纏う清々しい寂寥。たとえばFFXのティーダのような。他者の激情に愛おしさを向けながら世界に別れを告げること。
     希実香との美しい物語は、他者に身勝手な欲望を抱くことを自制することにより得られる。という構図として事後的に理解された。
     ざくろの√? を冒頭だけ眺める。滅茶苦茶気になるが睡眠時間が危うい昨今なので大人しく切り上げ、今日はここまで。    


  • 2017/04/24

    素晴らしき日々 プレイ日記006

     終ノ空(アトラクション)の際、幽霊―――現世と関わりを持てない存在は、幽霊を認識することで人間に戻ってしまうとの言及があったけれど、あれはそのまま彩名を前にした時の間宮ということでいいのかな。逸脱の度合いは相対的に規定される。
     ストリップ教師氏~~~。割とどうでもよい。世界の終わりに向き合う者の姿こそが見たいのであって、それを他人の/救世主の/間宮の言葉によって変換し/引き付けた、イメージとしての終末に怯える者には興味が持てない。
     エストレマラティオを持ち歩く女子高生。タントーは何のために存在するブレード形状なのか未だにわからない。おじいちゃんたちが若い頃にはストライダーナイフなんてものが流行っていてねぇ……。昔はクビシメの表紙に載っていたナイフすべて正式名称を暗記していたものだが、既にそのような能力は喪われている。熱意もまた能力であって。知りたいという気持ち。
     ファーザーはさすがに笑う。
     時間感覚の操作。世界が異常なようにも、希実香が話術により誘導しているようにも、希実香が異能により撹乱しているようにも見える。予断を許さない程度に豊かな読みの余地がある。

    「恐怖の先送りこそが……不安である」

     不安なことばで満ちている空。恐怖を先送りする言葉で満ちている空。

    考えてみれば、あんな茶番でこいつを騙せたのだろうか?

     間宮が時折見せる理知的な側面はとても好きだ。極限状態のボーイ・ミーツ・ガール。砕けた音が奇蹟に変わる。砕けたからこそ、恵みを与える。ことばと音のちがいほど、というフレーズはここでも想起される。言葉により形作られる世界。音により現出する奇蹟。
     銀河鉄道。どこへでも行ける切符。序章=(おそらく)エピローグへと断片的なイメージが吸い込まれるように輝くイメージ。端的に美しい。
     薬物で得た狂騒の先、ほんとうの世界の終わりが控えている。影山。北都南だし。
     踊れ! 新BGMの使い方が最高に巧い。世界は言葉、神は旋律。原理的に、旋律は時間変化をその定義として含む。    狂騒も、母への偏執も、世界への怨念も、どこかへ置いてきた間宮の様子。
     終わりが空なのは直観に反していて、海こそが終わりであり、空は永遠である―――と思ってしまうのは僕が鍵厨であるというだけの話なのと、すばひびにおける空―――終ノ空は、単純な終局ではないので、この場合は直観を棄却すべき。続いたものが―終わる、といった時間的な関係性においてのみ語られるものではないはず。
     ざくろの愛は神の愛と同様に特定の対象をとらず、それは彼女の特別になりたい者にとっては苦痛でしかない。
     ああ、言葉と音の違いほど、というのは後者を下位に据える比喩ではないのか。そんなこともわからない人間だった。エロゲーで賢くなろうな……。
     最後の最後に由岐を出さない。世界をずらしていく処理。素晴らしい。
     ここまで間宮という人格にとって重要であったもののうち、何もかもがどうでもよい。最後の最後に残ったのは、単純なボーイ・ミーツ・ガールだ。落下の音を最後に再生するような悪趣味とは無縁。
     乱交開始あたりからは問答無用に素晴らしかった。今日はここまで。


  • 2017/04/23

    お勉強ログ

     昨日はエロゲーをさぼって勉強などに身を窶していた。不良の所業だ。
     Common LispとOpenGLを学んでいる。後者はGLFWを利用した、3.3以降のモダンな仕様について。どうも、ゲームなどを作成するにあたり充分に抽象化された形で提供される類の知識にはあまり興味が持てないらしく、それなりに低レベルな処理について学ぶことに快楽がある人間であるらしい。何がどうなっているのかを把握できない状態に極度のストレスを覚える、のは何であれ共通している。分解すること。更に分解すること。

    素晴らしき日々 プレイ日記005

     『It’s my own invention』開始。

    遠くで雫が落ちる。
    何処か遠くで、雫が砕ける音……。
    砕けたものは、地を潤す。
    砕けたからこそ、恵みを与える。
    砕けた恵みは大地に染み渡る事が出来るから。

     スパイラルマタイの直截な比喩とも読めるし、もう少し抽象的な話のような気もする。
     目覚めとともに感じる世界の遠さ。序章のアトラクションで語られた幽霊の定義。終ノ空。原初の記憶を希求する語り。不連続存在。前章で代謝を例として人間の同一性について問うような会話が、確かあった。世界と自身との境界にまつわる連続性、自我の時間的連続性、身体の組成についての連続性。様々な側面から、「私」の定義/限界が繰り返し問われている、気がする。
     ”そんなおとぎ話を……ボクは君にしてあげられるのだろうか……?” おとぎ話を君と化す、というニュアンスで読み、なんてリリカルな言葉だと戦慄した。或いはそうであるのか?そうであってほしい。
     ”それでも人よ。幸福たれ!” 感動的な言霊。
     ざくろを招き、地下へ。ノイズと共に巻き戻る時間。以前にも見た気がする。
     地下に潜ってはみたけれど、そこにはマーマレードの空き瓶はない。
     裏サイトの登録者158人。ざくろの携帯電話に登録されている人数。
     双子姉妹はやっぱり存在の位置づけがよくわからない。由岐と間宮、自殺3人衆、よりは下位に属している気がするが。妙に丁寧な言葉で由岐を窘める時の不穏さと地続きの不穏さ。
     空へ! なんか対空投げっぽいモーションだ……。
     完全に集スト被害者と化した間宮くん。無惨。
     言葉の認識がうまくいかない、ということ。由岐においてはDown the Rabbit Hole終盤の司の声などにあったそれが、間宮においては頻発/常態化している。
     妄想が先行し、棄却され、現実が追走する……という描写が繰り返されるが、どこまで信用のおける主観なのかは何とも。母の死についての認識なども含めて、やはり間宮の主観はそれなりに疑わしい。
     ”高邁な精神が世界を覆い。醜悪で俗物なボクだけが残る。” この世を燃やしたって、と歌いたくなる。蜘蛛の糸とか連想させられる場面もあるし、少女の投身と無関心のモチーフはさらば桃子を思わせる。ある種の若者/終末みたいなものを大槻ケンヂ認定するのは容易すぎるので禁じた方がいい。
     ”本当は、キミをバカにするなんて絶対に出来ないんだから……” 上位者を迫害することなど不可能だと、そう家政婦さんが語っていた。或いは自他の境界の話か?
     死を体験することの不可能性、にも関わらず我々は死を想像できるということ。変化させ、或いは代替物によって、私たちは死を語る。或いは他者についても同様に。
     意味ある生の定義について。引き伸ばされた幸福は意味を担保しない。
     間宮絶好調展開。バッハとか流石にEOEでしょという顔をせざるを得ない。
     言行だけならば集スト被害者の発狂でしかないのに、鏡との対話で世界が更に捻れて正常化するような感覚。立ち絵で一枚絵に侵入してくる彩名の異様さは特筆すべき。観測者によってのみ存在を許されるものとしての若槻姉妹。序章ラストにおける消失。
     言葉により世界は規定され、言葉では記述できない世界との境界が規定される。その界面について。立体の表面は外か内か。
     異常に多弁な内心が唐突に覆い隠され、発話だけが記述される瞬間の異様さ。こういう演出は強い。
     希実香の異常な自己コントロール芸。救世主様を弄ぶのはよくないのでは……。すべてを知りたいように、引き付けて知っていく間宮。
     若槻姉妹を忘却する横山。1章と同タイミングで世界がスイッチしている?
     ”それならば問題無い。充分«イナフ»だ!” 声に出して読みたいエロゲ語。
     希実香の立ち位置がよくわからなくてゾクゾクするなー。強キャラ感しかない。
     瀬名川の墜落まで読み、今日はここまで。


  • 2017/04/21

    素晴らしき日々 プレイ日記004

     終末の予感が世界を覆う。至る所で囁かれる不安。7月∞日がただちに連想される。
     これがかの有名なスパイラルマタイですか……。
     しかし間宮はものすごいシンジ君寄せしているように見える。常に何かに怯えているような震え声も大概だったけれど、プールサイドでの余裕に満ち溢れた声色などは完全に調子こいてる時のシンジ君だ。
     二次元のトカゲの比喩。低次の存在には高次の世界を直接認識することはできず、自分の存在する世界のルールを精査し、そこに高次の理でしか説明できない現象を認めることによって、初めてそれを捉える―――それも、飽くまでも知識として―――ことができる。ただちに連想されるのは一章におけるざくろのぬいぐるみであり、そして当然、そこではどちらの世界が高次であったのか、という疑問が生起する訳だけれど……。
     間宮の語りが悉く最高すぎる。あらゆるエロゲーにこういうキャラを一人ずつ配置してほしい。間宮に見初められた、その資質が由岐の生来のものであるのか、それともざくろの託した力であるのか、は気になる。或いは両方?
     間宮圧倒的によすぎる場面連続かよ。教室での丁々発止。莫迦みたいに素晴らしい。歴史の教師が激したりせず、ただ間宮の正気を案じたりするのには異様なリアリティがある。人間はあまりにも強い悪意に対して容易く安全回路を作動させてしまう。プロトコルは立ち上がらず、宣戦布告は通らない。そういうふうにできている。
     生を知ることは死を知ることの前提条件? かと思えば、死を隠蔽することについて語られているような気もする。彩名との会話は常によい。
     希実香の反応。一章でざくろが語った、大切であれば連れてこれる(認識できる?)といった話を連想する。縁、というよりは絆? 何かを持ち越しているような感覚。間宮妹もそうだが。
     ホラー演出が圧倒的にうまく、Rewriteルチアルートはなぜこうできなかったのかという気持ちが生まれる。
     逃げて屋上へ。屋上のフェンスが翼のように見える彩名の立ち絵は意図したものかもしれない。人が変わったように強まる由岐。
     かがみん追悼スレの必要がある……。
     世界の限界。言語の限界。ここらへんは直接的にウィトゲンシュタイン引用なのだろうかと思うが、論考読めず滅びたマンとしては何も言えない。
     ”それは何かを叫んだ。確実に何か……人でない叫びを……。音でない音を……。” ことばと音のちがいほど、というのはこのことかよ……。
     十字の光にカヲル君みたいな顔でシンジ君みたいな声の人がなんかゆってる、と思ったら月が赤くて完全にEOEではとなる。
     終ノ空。
     ここでBGMの反復から語りの反復。おめえ、ココおかしいんじゃねえのか? と製作者たちに言ってやりたい。無論として最大の賛辞のつもりだが。実際には極めてクレバーな知性の業という印象もある。
     軽快なロックサウンドと共にエンドロール。今日はここまで。


  • 2017/04/20

    素晴らしき日々 プレイ日記003

     電車内での独白。この退屈でイイ感じな今が永遠に続いてほしい。この独白には少し違和感があって、眼前の今はいつか輝かしかった未来の朽ちた果てだ、自分たちに未来はあるのか、という吐露が少し前に行われた訳だけれど、こう書いてみるとべつに相反する主張でもない気がしてきた。未来の価値を認め、ここにそれがないことを嘆く立場と、くだらない現在の心地よさと、それが失われることへの焦燥/諦念とを抱える立場とは、両立しうる。
     一章ラスト、言葉が世界を満たしながらも人間の存在は過疎化していく、というアレはよくわかっていなくて、それと同じ軸上に空いっぱいの不安な言葉というワードが位置している気がする。つまり依然としてよくわかっていない。わかりを得たいが……。
     しかし、ある種の献身、負い目、そういったものから自由になったざくろ氏は一章よりも更によい。あの関係性もまた好きだったけれど、しかしこの正しさを推したい。
     ざくろ氏との面識の有無、高槻姉妹と天文部員との関係の疎密など、由岐の主観とずれていく世界。時間経過とともにずれが広がり、世界が軋んでいく感覚。いいねえ。
     投身。驚きと納得とが相半ばする、のは一章での豊穣なイメージが布石となってのものであり、よい流れだ。
     高槻姉妹に諌められる由岐氏。異常な不穏感が漂う。
     ざくろ氏がいた筈の時間/空間/役割を代替する彩名氏。やはり直観的に滅茶苦茶好きなキャラではある。下ネタキャラの正しい立ち回り、という感じ。全てにおいてよい。
     空への恐怖。朽ちた未来に対する言及に続きイマ感が醸し出される。
     最初の選択肢(鏡/司)まで読み、今日はここまで。


  • 2017/04/19

    素晴らしき日々 プレイ日記002

     学校サボりシーンから。
     王様ゲームには全体的にあまり興味がない……。現状のところ、すばひびの良さを自由で/縛られないコミュニーケーションに見ている部分が多いので、王様ゲームのような制度性によって振る舞いを縛る類の仕掛けは登場人物の魅力と正面から衝突してしまっているような感覚がある。そういう意味ではメイドや幼馴染や妹といった属性をキャラがメタに演じていくのもあまり好きではない。
     屋上、彩名との邂逅。プロローグからしてそうだが、太陽と青空を背にした絵がことごとく満月の夜を連想させるのは意図的な演出なのか。ハレーションの掛かり方などは完全に月夜のそれだ。本来であれば陽射しは輪郭を飛ばしこそすれ、光らせはしない筈。空の色味もわざと宵闇の藍に寄せているように見える。
     自分の頭の中にいる相手。二人称で成立する他者。言葉と音のちがいほど、というのはよくわからない。空の加速。誰もが神様と同じ重さの頭を持つのであれば、論理的にいって、そこには世界が収まりうる。街をも飲み込み、空をも飲み込み、そして、人をも。  プロローグで由岐が嘯いた、神様には縁がない、という言葉が連想される。誰かの頭の中の世界である、ということ? セカイはイメージでできてるんだって。順当にいけば、水上由岐の世界? ざくろの世界ではないと思う。根拠はない。直観だ。
     無数の世界と投身、という概念の並びから即座に100万人の少女が想起される。たぶん関係はない。
     終ノ空(アトラクション)。よい。人間の生活と隔絶しているがゆえに幽霊は幽霊なのであり、ひとたび現れた幽霊を「幽霊である」と認識してしまえば、私たちは人間になってしまう。ラストは境界の撹乱。アトラクションを出た後も、彼女たちは幽霊のまま。
     7月∞日。白兎の時計の音。86400は60x60x4。人間の不在。直接的にアトラクションの続きを示唆していてちょっと驚く。お茶会。兎の穴に落ちたのは誰か。  銀河鉄道。いつか共に時間を過ごした書物とともに、星空をゆく。  決別。わかりやすい話のように見えるが、疑問は残る。語られたとおりの話でしかないのであれば、彩名とざくろの確執とは一体何なのか? 美しくコンパクトに纏めつつ、広がりを予期させる導入。よい一章でした。この先も頼むぜ?

     少しだけDown the Rabbit Holeの冒頭を覗く。”たばこの銘柄はマイナーなもの”……そういうことか! 車掌との会話の違和感の出処がようやく理解された。
     


  • 2017/04/18

    素晴らしき日々 プレイ日記001

     冒頭の屋上。地の文で語られる「彼」と、彼女と会話する少年とは同一人物なのだろうか。物語の終端から「彼」との出会いを追想しているようにも見えるし、彼女が「彼」について回想していた時に少年が割り込んできただけのようにも見える。極めて自然な認識の撹乱で、こういうのは結構好きだ。
     姉妹の名前がかがみとつかさってのはこう……。うん……。
     ざくろと由岐の会話はかなり良いなあ。根本的に噛み合っていないにも関わらず、言葉遣いのルールがそれほど乖離していないがゆえに大過なく進行する感じ。あと、158人にメール出す発言に由岐が突っ込まないのはかなりよくて、由岐なりの判断が介在していることが見て取れる。義務的にすべての発言に突っ込む=身に付いたある種の型によって/或いは場に宿る会話の力場みたいなものによって自動性を発揮するのではなく、会話を自分の意志によって進行させようとする人物なのだ、ということがひとつの応答から朧気に推察される。こうやってキャラクターが脈動を始めるんだ。
     そして唐突な世界の並列性の示唆、続いて英詩らしきものの暗唱。Glass house、ってのは鏡の国のアリスだったか。亡くなった英語の恩師に勧められてアリスは英語で読んだ記憶がある。鏡の国、というのはまさに別世界である訳だけれど、しかし章タイトルはRabbit Holeなんだよな。
     空の分け前。ざくろの奇妙な言い回しは非常によい。言葉によって世界を分節化する私たちは、言葉によって世界観を感染させてゆく。
     ”「空は誰のものでもないですか?」”この切り返しは素晴らしいな……。これに応ずる由岐の発言は強く一般性の側に立っていて、ざくろの想定する世界観をおそらく共有できてはおらず、それは冒頭の不思議な発話を行う水上由岐のイメージとは食い違う。やはり回想である/あった、ということ?
     シラノの詩の反復、そしてBGMの反復。この演出には明らかに注意を払うべきであり、詩のことばは反復のことばであることを心に強く留めておかないとならない。そしてシラノを「彼」と呼ぶざくろ。
     月世界。兎のイメージでアリスと接続される気がする? 或いは月の裏側。別世界。見えていて、見えない世界。月世界旅行はベルヌだっけ? ポオの短編集に熱気球で月に行く話があって、科学考証を意図的に/部分的に放棄した月SFが流行った、みたいな解説を読んだ記憶がある。”機械の助けなんぞ借りなくとも”というのは、或いはそういう文脈なのかもしれない。
     はにはに、そらおと、ハルヒなどといった実名引用パロネタはどうなんだろうなーと当初は思っていたけれど、これは要するにアニメやゲームを詩や哲学書と同等に扱う、という制作側の態度表明と見るべきなのかな。逆に言えば、特権化しない、ということでもあるかもしれない。しかしAIRを意識していそうなやりとりの直後に直接的なAIRパロとかぶち込んでくるのあまりにも強いな……。
     ざくろとの対話。やはり由岐は意図的に常識の側に立つ者として描かれているように見えるなあ。概してざくろの発話は素晴らしい。すべての人間がこのような発話を日常的に行えるようになれば、少しは世界がマシになるんじゃないかと思う。  ”私なんかには今の会話なんて、電波ゆんゆん会話にしか聞こえなかったのに……なんでそんな電波ゆんゆん会話で高島さんと司は成り立ったのだろう……。” 会話の本質。  団欒ギャグシーンは楽しいけれど、ざくろと由岐の対話があまりにも良すぎて、はやく二人になれと思ってしまう。
     お泊り会の翌朝まで読み、今日は終わり。


  • 2017/03/27

    Rewrite

     喉から手が出るほど欲しかった筈の心地よい居場所や他者からの親愛を痛みとともに拒絶しながら進むのが原作の天王寺瑚太郎であるならば、アニメ版の天王寺瑚太郎はそれらを受け容れることすらなく振り払っている。江坂との決着は原作ほどの感情の爆発を迎えはしないし、目を持つ超人(名前忘れた)を裏切る際の心の痛みも画面には映らない。原作の瑚太郎が他者を踏み越えて遂行すべき使命に目覚めた途端にかつてあれほど望んでいた世界へ/他者へ/社会への接続を果たすのとは対照的に、TERRAの瑚太郎は世界から浮いてしまっていて、原作であれほど強調されていた痛みもどこか鈍く/遠いものとして僕達の目に映る。歩みを止めれば手に入るかもしれないものを目的のために振り払う痛みではなく、歩みを止めないために最初からすべてを諦め遠いものとして距離をとるという覚悟こそが、そこでは描かれる。
     随所で原作に備わっていたエモさは大きく削がれている。その帳尻合わせとして篝との対話を持ってきた、正にそのことこそが篝√たる所以なのだろう。痛みに傷つきながら/誘惑を退けながらなお目的を達せない悲愴ではなく、最初から彼女しか見ていなかったにも関わらず、彼女を救えない悲哀。原作の瑚太郎は確かに満身創痍だったが、それは一時の暖かさを経験してしまったがゆえの痛みであって、―――それらをすべて触れる前から拒絶したアニメ版瑚太郎には、痛みにのたうち回るだけの暖かさすらなかった。
     悲恋にフォーカスするということ。まずは、その選択を尊重したい。正直なところ、まだ何も整理できていないのだが……ともかく、僕達は彼らの恋を見届けたのだ、という認識から始めたい。


  • 2017/03/24

    雑記

     属人的な知識や経験を参照可能な形でストックしていく努力を怠った結果が黒魔術に満ちた非効率な開発体制ちゃうんか? あ? などと上司の額を竹刀で小突きながら問うてみたい気持ちはあるが、実際やってみるとおそらく良心の呵責が昏い快楽を遥かに凌駕する。だってオイラは人間だから……。
     物語を動かす力について考えている。たとえば、ラスボスがおらず/戦闘は存在する/ミッション型オープンワールドでないRPGを想像することはたぶん可能で、そういうものについてきっちり考えを詰めることこそが、慣れ親しんだJRPGへの理解を更に深化させるのではないか、という期待もそこにはある。


  • 2017/03/17

    言語以前

     秒速5センチメートルのPVを観た時、陽射しがアスファルトに照り返す日中のカットに強く惹かれた。
     熱された空気が粘性さえ感じさせるほど肌に密着し、視界に映る情景は強い日光によって曖昧に輪郭を白く飛ばす、そんな、立っているだけで意識が空気に融けていきそうな、春先から盛夏にかけて成立する時間。
     秒速PVのカットは、そんな時間を精確に描出していたように思う。写実的な絵だ、という意味ではない。カットを目にした時の僕の感覚が、記憶の中のあの時間を過ごしていた頃の感覚と等しい、ということだ。強い陽射しを照り返すアスファルト、という記号を認識し、それを切っ掛けに「あの時間」を知識として引っ張り出す……というのではなく、記号化された―――デフォルメされたものであるところの絵が、現実の情景に感じた何かを直接的に喚起せしめるという転倒。
     言語以前の何かを抉り出すことを創作の目的として据えた時、あの何でもなさそうなカットは確かに僕にとり最大の効果を発揮してみせた。あのような技巧と達成を目指さなければならない。